スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。
花冷えのグラスワインにゆれる赤あこがれまたはあきらめとして

中村敬子『幸ひ人』

阿蘇の森の中に一つの酒蔵があって、そこの女将さんが大変に上手な西洋画と句集とを遺している。
何という名前の俳人であったのか思い出せないのであるが、山村という苗字以外には知らない。

酒造の主に見せてもらった家族の写真集があった。
そこに、多くの俳人や芸術家に囲まれた90歳前後の女亭主といった具合で、その人が写っていた。

ある種、グラスワインの赤は、その母の偉大さや華やかさの象徴でもあるのであろう。
戦前に生まれた人びとは荘厳なパーティをひらき、酒盛りをして、豪放磊落にふるまうのである。

平成生まれの自分には、何というか、慎ましくて、こじんまりとした生活をしないと、と思ってしまう。
そうしないと、他者から後ろ指をさされるのではないかと、後ろめたい気持ちになってしまうのである。
そういうミニマリズムの生活に浸ってきたせいか、いつの間にか、あの開放的な明るい文化には馴染めない。
大正生まれの人びとに対して、あこがれもあるが、あきらめている自分もいる。

すべてが去った後にも、さくらの花は咲いており、しずかに降り注いでくるのである。
本歌集の、のちに出てくるこの歌が、しずかに響いてくる。

花びらのすべてが「母はいません」とささやいてゐる今年のさくら


2019/10/27(日) 19:23 一首評 PERMALINK COM(0)
満ち満ちてむんと膨らむ紫陽花のいつときだけの家族のかたち

黒木沙椰『Manazashi677』

毎年、お盆過ぎになると、家の人びとが、一同に集まって、爺さんの墓参りに行く。
一年で唯一、家族があつまる時期であり、それが終われば、兄は関東へ、妹は中国部へ、弟は関西に帰る。
そして、私と両親とだけが熊本に取り残されて、ふたたび何もない生活に戻ってゆく。

紫陽花は一瞬だけ膨らんで、あっという間に風と雨にながされて、消えてしまう。
ふたたび枯れた生活、何も面白くもない生活に戻る。

昔、子どもの頃は、みんな一緒にバーベキューをして、こんな風にバラバラになるとは思わなかった。
人も花も同じ。

でも一瞬だけ膨らむときの、そのむんとする感じ、そこに家族のつながりを感じる。
2019/10/27(日) 11:27 一首評 PERMALINK COM(0)
元気か、と聞かれ元気だと答えれば風のない風景に似てゆく

山崎春蘭『外大短歌第4号』「すすき野」


大学に入学したばかりの1年生の頃には、何の不安もなく、漠然と前向きに生きてきた。
海で泳ぎ、美術館を歩き、草原にデートに行った。
それから大きな津波がやってきて、日本は真っ暗なデフレに陥ったのだけど、それでもどうにかなると思っていた。
弁論クラブに顔を出して、そうだ、自分もまた、新しい理論を打ち立てたいと思う様になり、図書館に入り浸った。
ところが、自分の考えというものは、多く、すでに言い古されてきたものであることが分かってくる。
新しい何かを発見するという研究は本当に難しいことなのだなと思うようになってくる。
何も新しいものを生み出せない。
そんな風にして、研究の道に限界を感じ、私もまた、大学4年生の頃には、周囲と当たり前のように就職活動を始めるようになった。

元気かと聞かれると、実際どうなのだろうと思ってしまう。
やればできるだろうと前向きに思える時代が、たしかに私にもあった。
でも、それは過ぎ去ったことなのかもしれない。
社交儀礼として、元気です、と答える。でも、やはり、実際は、どうなのだろうと思ってしまう。

踊るような風の日もなくなり、台風にわくわくしていた小学生の頃がとても懐かしいのである。
2019/10/26(土) 22:14 一首評 PERMALINK COM(0)
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。